深い海から引きずり出されるように、俺は携帯の音で眠りから目を覚ました。

千也のメール着信音と思われる気に入っていた音楽は、目覚めに聞くと最悪なものに聞こえた。煩わしさを抑えて携帯に手を伸ばす。時刻は7:00。一番眠い時間に起こされたものだ。

“今から学校来れないか?昨日無理すんなって言ったけど、ちょっと話したいことがあってな。朝早くからわりぃ”

メールにはこう書かれていた。行くという返事をし、支度をするために俺はベッドから冷たいフローリングに足をついた。

支度を整えているときに、千也がどうしてこんな朝早くから呼び出すのか考えていた。最近あいつは少しおかしい。俺がおかしくなったせいだからだろうか。

とにかく俺は素早く朝食を摂って、家のドアを開けた。



教室のドアを開けた先には、千也が席で俺に手を上げていた。クラスには3,4人の女子が席に座って予習をしている。

「おう。今日は体だいじょぶそうか?」

「ん。大丈夫だ」

俺は自分の席に荷物を下ろし、後ろについてきた千也に問いかけた。

「それで、話っていうのは?」

「……ん?ああ、んじゃちっと他のとこいこうぜ」

特に断る理由もなかったので、俺は千也の後ろをついていった。教室を右に曲がり、まっすぐいくと突き当たりにある視聴覚室という場所についた。

ドアを開けると、中には冷気が満ちていた。飾り気のない灰色の壁と薄い青色の床は、その寒さをより一層引き立てている。窓の外は雪で空も街も、白い。そのわりに、雪は全く降っていなかった。

「結構寒いな。さっき暖房ついたはずなんだけどなぁ」

「で、話って?」

なんだか妙に気になったので、俺は単刀直入に千也に聞いてみた。

千也は、返事をするのを延ばし、ゆっくりと教卓の前へ行き、俺に背を向けるようにして机の上に座った。

「―――昨日なぁ、保健室に俺ともう一人女子が行ったっていうのは聞いたか?」

唐突な質問だな、と思った。それがどうしたのだろう。

「ああ。保健室の先生に聞いた。ほんとすまんな」

「俺が話したいのはそこじゃない」

間髪いれずに言われる。じゃあなにを話したいと言うんだろう。

「もう一人の女子っていうのが誰だったと思う?」

「保健委員の安達じゃないのか」

当然の質問に当然の答えを返したつもりだった。しかし、それは間違いだった。

「……安達は昨日休んでたの忘れたか?」

「あ……そういやそうだったな」

忘れていた。昨日確かに担任が安達がなにかで欠席するって言っていたのを思い出した。じゃあ一体誰だというのだろう。

「じゃあ一体誰なんだ?見当もつかないんだけど」

「お前の隣」

言われた瞬間、違う、という否定が浮かんだ。なぜあの人が俺のところに来るというのだろう。かすかな動揺と期待の波紋が、俺の心を揺らした。

「まさか」

「言うと思った」

「ふざけてるのか」

「んなわけないだろ」

千也の声を聞くと、事実を物語っているのだと思う。でも、どうしてなんだろう。

「なんで俺のところなんかに」

「―――彼女、相当心配してたぞ。お前がなんて言ったのかは知らないけど、彼女も彼女なりにお前のこと意識してる。まあ、俺もあそこまでうろたえると思わなかったけど……。でもまぁ、あんな倒れ方されたんじゃ、ああなるのも無理はないのかもなぁ」

「あんな倒れ方?」

「ああ。お前、横にそのまま倒れてな、自分の机に思いっきりぶつかって周りのイスとかかなり倒したんだぞ。いやあんときの音はマジびっくりした。クラス中が静まり返ったぞ」

「……」

気分が悪くなってきた。最悪な姿をクラスにさらしてしまった。

冷たい机の表面を指でなぞり、掌で触れたあと俺は机の上に座った。

「……恥ずいな、全く。いや別に体調が悪いっていうんじゃないんだ。―――まあちょっと色々あってな。言えないんだけど」

「そうか……」

千也は少しだけため息を吐き、振り向いて俺の目を見ながら何かを言おうとした。しかし、その口から言葉は出てこなかった。

「心配かけてわるいなぁ、ほんと。でもお前がクラスにいてくれて本当に俺は助かってるぞ。あまり人付き合いが苦手だからなあ」

「困ったことあったら何でも話せって。それに藍子さんにも色々話してみろ。彼女、ほんと心配してたからな。本当だぜ?」

「……そうか」

内心すごくうれしかったが、俺はそこでまた未来の死を想像してしまった。もし、俺が死んだとき、彼女は悲しんでくれるだろうか。もし悲しんでくれるならば、俺は生きてきた意味があるような気がしてきた。

「んじゃあ、教室もどるか」



その日はクラスの視線を感じた。

授業で先生から当てられたときには全員が注目していた。俺はうつむき加減で一つ一つの授業をやり過ごしていた。

「昨日はごめん」

3時限目後の休憩のとき、俺は顔を黒板に向けたまま藍子さんに謝った。

「えっ、なにが?」

俺は藍子さんに振り向いて、目を見ながら言った。最近では緊張をしなくなったように思える。

「いやなんか酷い姿見せちゃったから……今日の朝千也に聞いたんだ。俺、すごい倒れ方したから、びっくりさせたかなって」

「そ、そんな全然!私すごい心配したんだよ!?昨日、水無瀬くん顔色すごい悪かったし、ちょっと無理してるふうに見えたから……うん」

「あと―――」

気のせいだろうか、藍子さんがなんだか緊張しているように見える。―――それもそうか、こんなこと言ってるんだしな。

「昨日保健室に来てくれた?そう聞いたんだけど」

「あ……うん。し、心配だった、から……」

顔が少しだけ赤くなっている気がする。俺は口元を手で隠しながら、彼女の顔をじっと見た。

「ありがとう。変な寝顔してなかったかな」

藍子さんは首を2,3度横に振りながら、目を忍ばせた。

「……可愛い寝顔だったよ」

「うあ」

「水無瀬くん寝顔女の子っぽいんだね。あ、私怒らせた?」

「……別に」

「あ、怒ってる」

なんだか変な会話になってきたぞ。俺の寝顔なんてどうでもいいんだが。……好きな人に寝顔見られたんだな、俺。

「寝顔見られるなんてな……」

「ちゃんとご飯食べなきゃだめだよ?あと悩みとかあるんなら、私、相談のるよ?」

「あ、うん……」

やさしい言葉。俺は自分で思っている以上に、この人を好きになってしまっている。そう漠然とした衝動が、俺の心を襲った。

その衝動は心地がよく、今まで感じたことのない感覚。だが一方で、耐え難いほどの鋭いある種の脅迫。

死ぬのが、怖くなった。



放課後になり、千也と話をしていた。最近のテレビの話や、学校の話、先生の話、進路の話。千也は将来は俺と同じであまりよく考えていないようだった。

「昔は俺雑誌の編集とか広告代理とかに興味あったんだけどさー、なんかそこまで踏み込みたくないっていうかなんていうか」

その気持ちはわかると思う。大体なにか一つの仕事に就くということを、俺はなんだかずっとその分野に携わっていなくてはいけないと思ってしまう。

しかし今となってはそんな心情は意味の無いものなのだが。

未来がない人間の気持ちというのがこんなに浅薄だとは思わなかった。

「そういや水無瀬、今度どっか遊びいかねぇ?俺結構休日暇なんだよ。久美も部活多いしさぁ」

「遊びねぇ……」

ここ数日遊びなんて全然行ってない。というかそんなの行く気にもならない。面倒だ。

「実際お前も暇だろ?部活入ってないんだし」

「まぁ一応」

「だいたいお前休日一体なにしてるんだ?前々から少し気になってたんだけど」

「寝てるか映画みてるか本読んでるか勉強してる」

「すっげぇ暇じゃないかそれ」

「そうでもないけど」

おそらく俺は休日の使い方がなっていないのだろう。だがそれなりにいい過ごし方をしてきてはいると思っている。

「おし。んじゃあ今週の土曜、駅前に新しくでたとこ行こうぜ!あのビリヤードとか卓球とかあるとこ!」

「へぇ」

「な?いいだろたまには!おし決定だ!!」

「……拒否はできなそうだな」

別になんの予定もなかったから俺は行くことにした。

「あ、まだ教室にいた!千也ぁ!」

「ん?ぉお、久美。どうしたどうした。今日は部活じゃなかったのか?」

話の途中で、教室の開いたドアから千也の彼女、久美さんが来た。なんだか久しぶりに見る。相変わらずツインテールにした黒い髪と、目がぱっちりとした綺麗な顔をしていた。

「今日ちょっと色々あって部活無くなったんだ!一緒に帰ろう?」

「おおー!まじかっ!?んじゃ帰るかぁー」

俺は千也に右手を上げて「じゃあな」と意図伝達をした。そして千也はバッグを持って彼女の元へ行き、教室から出て行った。

一人になった俺はなにもすることがなく、少し窓の外を見ていた。

「久しぶりに弾いてみるか……」



誰もいない音楽室。

吹奏楽部の活動が無いことをいいことに、俺はここに来ていた。

白に近い表面が滑らかなアクリルの床。天井は音楽室特有の段状のつくり。音楽室は全体的に白い空間で、窓から反射する降雪がそれをより一層引き立たせている。外は雪景色だ。

およそ4年前、中学2年まで俺はピアノを5年間やっていた。

小学校3年から親に習ってみないかと言われ、別段なんの特技もなかった俺はなんの考えもなしにその提案に承諾した。

俺はピアノを好きになった。

毎週日曜の教室で、ピアノの鍵盤に触れるたび、期待と夢が膨らんだ。

しかし人間というのはわからないもので、いやむしろ俺という人間がだと思うが、俺はピアノを習うことが義務のようになってしまい、なにか自分にとって重いものであると感じて、ついに辞めてしまった。

人間は失って初めてそのものの本質を知る。

そんな言葉のとおり、俺はピアノが自分にとって大切な一部となっていることに気づいた。

家にピアノがなかったため、時折学校にあるピアノを弾いては、満足感を得ていた。誰のためでもなく、自分自身のためにピアノを弾くことができるのは、とても幸せなことだと知った。

そして高校二年。

俺はゆっくりと足音を響かせながら、ピアノに近づいていった。