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その日は酷く美しい日だった。
大粒の雪がゆっくりと世界に降り注ぎ、冷酷な気温が街を凍らせる。電信柱に氷が生え、鋭い透明なつららが日光に照らされていた。
何よりも太陽の光が澄み切っていて、雲の切れ切れの隙間からまるで聖化するように人々に光が神々しく下ろされている。
自分の死ぬ前日がこんなに美しい日だとは。死ぬ人間の一種の幻視なのかもしれないが、俺にはそれでも美しく見えた。
太陽が降り注いでいるのに、雪が降っている。
そのゆっくりと降りる雪の粒に、暖かな陽光が反射して、視界すべてが煌いている。
昼からそんな景色に出迎えられ、俺は後押しされた心境だった。
今日は2月14日。バレンタインデー。教室では男女たちの変な空気が漂っており、聞くに堪えないようなくだらない会話が交わされていた。
そんなことはどうでもいい。
明日、俺は死ぬ。
その前に、今日俺は藍子さんに告白しようと思う。
授業がすべて終わり、放課後になった。夕闇に染まった空が、橙と紫のグラデーションを作っている。時間は午後5時。少しづつ、薄暗くなっているのが分かる。
教室の前にいる千也に別れの挨拶でも告げようと思う。千也とは、席が変わってから少し話さなくなった。多分、あいつは俺と藍子さんを見守っているのだろう。
明日は俺は学校を休もうと決めていたし。これが最後の会話だなぁ。
「千也。じゃあな。彼女と仲良くな」
「お、おう。って皮肉ってんのかお前!お前も早く彼女でも作れよー。じゃな!」
俺はいつもどおりに教室を出たあと、ある一点を目指して歩いた。それは、北校舎3階の俺の好きな場所。
階段を上ったつきあたり。白くまだシミ一つない綺麗な壁が、両脇に続いている。
扉を開けた。そこにはいつもと変わらないピアノの姿。そこは、音楽室。
今日は先生の配慮なのか、吹奏楽の部活は休み。ちょうど休みでよかった。
俺は最初、屋上にしようと思ったがあの寒さの中に彼女をいさせるわけにもいかなかったので、変更した。温かい暖房が付いているこの部屋なら、落ち着いて聞いてもらえるだろう。
白いアクリルの床も懐かしく、自分が当分ここに来ていなかったことに気づく。ほっとした気持ちで、奥の窓際に置かれたピアノに近づいた。
席に座った俺は、バッグから携帯を取り出した。
藍子さんにメールを送った。
『放課後、少し話したいことがあるから音楽室に来て欲しい』
たった一行の文だが、俺の意思の強さは通じるだろう。
「叢、外してくれないか」
出口の窓際にいる叢に頼んだ。この時間だけは、外してほしい。
「……分かった」
そう言って叢はなんの音もなしに出て行った。教室には、俺だけになった。
メールの返事が遅いので、俺はピアノを弾くことにした。
曲は、ベートーベン『悲愴』第2楽章。この日のためにとっておいたといってもいい。この曲だけは、昔、徹底的に練習したので完璧に覚えている。
カバーを開け、鍵盤に触れる。
すうっとゆっくり深呼吸をして、その大好きな曲の最初の一音を、鳴らす。そして両手に力をこめた。
人生最後の曲。明日死ぬ自分自身への追悼。哀れみ?怒り?驚嘆?いま自分の中にあるこの感情はそんなものではない。
流れるメロディーのように、穏やかな心拍のように。この心は、今まで生きてきた生涯の中で、最も熱く、冷たい静かな水面のよう。なんの濁りもない。きれいに透き通っている。
指が、全身が、人生の最後を悟っている。
涙が出るのをぐっと堪え、記憶に焼きついているその音符たちを指に宿す。
窓の外で、雪たちが輝いている。
それは自分の精神が半分世界に帰る感覚で、死ぬことへの受け入れ。終止符を打つことへの躊躇いの無さ。
だがしかし、最後に彼女に告げなくては。
その抗いも、もうすぐ終えようとしている。
曲の終盤で、音楽室の扉がガラガラと開いた。
藍子さんだった。
俺は彼女を見ずに、演奏を続けた。
音楽室全体に響き渡る自分の穏やかな音楽。むしろ言葉で告げるよりも、これで彼女に思いは伝わっているのかもしれない。いや、もう大分前から彼女は分かっていたのかもしれない。
彼女はゆっくりと歩き、俺の隣りに来た。傍らで、見守るように演奏を見ている。
最後の一音を終え、ピアノのカバーを閉じた。
「水無瀬くん、上手だね」
静かな室内の中、彼女の言葉が優しく木霊する。しばらくその余韻に浸った。
「――――中学の頃、ある女の子から言われたことがある。あなたは、心の底から人を好きになったことがある?って」
椅子から立ち上がり、振り返って後ろの窓外の雪たちを見つめる。
「俺は答えられなかった。自分で分かっていた。俺は人を好きになるという感情に欠けているって。無感情で人々を見つめ、なんの感慨も持たずに他人と話して、自分という人間をある意味で消してた」
ただ淡々と、続ける。
「まるで中身が無かった。お前はなに考えているか分からないとかよく言われた。それから人を拒絶するようになった。人っていうのは、汚れていると感じた。ありとあらゆる人間が、腹では全く違うことを考え、自分というペルソナを被っているようにしか見えなくなった。そしてそんな自分も汚れきっていて、腐りかけた心の持ち主だということをずっと意識していた」
藍子さんは、俺を見ている。その目はどこかでみたことのある目だった。
「そんな中、千也と友達になった。あいつは裏表がなくて、いつもどこか明るかった。笑うって難しいことなんだなって思った。少しづつだけど、立ち直れた気がした。そして―――」
なんども口にしたその名前を、もう一度想起して声に乗せる。
「――藍子さんに会った。最初見たときのことを今でも覚えている。新しく進級して2年の教室に入ってすぐだった。見た瞬間、自分の中のなにかが動いた気がした」
俺は見ていた雪景色から、いったん瞼を閉じた。今までの過去を瞼の裏に巡らせながら、震えてしまいそうな声で、続けた。
「それからの日々はずっと意識してばっかりだった。毎日毎日、藍子さんを見てしまう自分がいる。否定できない感情ができてた。気づいていたけど気づかないふりをした。目線があっただけで動揺したり、少し話をしただけで幸せになったり、たとえそれが哀れで滑稽なものだとしても、俺は止めることができなかった……」
彼女に振り向いた。目を少し見開いた藍子さんの黒く透き通った両目に、自分の姿が写っているのが見えた。
そして、自分の心の全てを込めて、言った。
「好きです」
「―――私も中学の頃、ある女の子が嫌いだった」
彼女は、その視線を落とした。
過去を見つめているようだ。
「本当の心を明かしてないんじゃないかって。いや、明かしてなかった。心の思うことの一歩前の偽装された、自分のもう一つの意思を話すの。話し口調もそうだけど、その人の目が……まるで光が入っていないような、魚みたいな目だった」
彼女の眉が歪み、そのころを呪うかのように辛そうな顔をした。
「その人とは違う高校になって、安心した。もう二度とあんな人には会いたくないって思った。偽りの心で話しているなら、素直に話す私はなんなのかって思ったの。嫌だった。本当にあの人が嫌だった」
彼女はくるりと後ろを向いて、音楽室の周りを歩き始めた。
「――2年生になって、私にはまた同じ不安が走った」
立ち止まって反対側の窓外を見上げた。
「あの子と同じ目を持った人がいる―――怖かった。また私はあの不安と生活するのかって。ごめんね水無瀬くん。あの時は本当にそうだったの。嫌だった。だから話さないようにしたし、避けようともした。けど……」
今度はこちらに横顔を見せるようにして、虚空を見つめた。
どこか申し訳なさそうに、俯いている。
「…千也君が、私に気づかせてくれた。水無瀬君は、悪くないんだって。ただ、そういう人なんだって。不器用なんだって。それを一方的に嫌うのは、間違ってる。私が、間違って、いる、って」
彼女の声が、次第に涙声になった。涙が少しずつ流れている。その涙は贖罪の涙、なのかな。そんなこと、とっくに許しているのに。
「それから、私は水無瀬くんを避けるのを止めた。水無瀬くんの本当の気持ちを見てみたくなった。そうやって水無瀬くんと話していくと、あなたは少しずつ変わった。自分を変えようって、あなたが必死なのがすごく伝わった。私は、自分でも気づかないほどにあなたに惹かれていった。気づけば、どうしようもなくあなたのことを想っている自分がいた」
涙を次々と流して、俺の前まで歩いてきた。手で拭いながら、彼女はそれでも続けた。そんな顔でさえ、愛しく思ってしまう。
俺の前で止まった彼女は、涙を拭いて、その潤んだ瞳で、言った。
「ごめんね水無瀬くん……私は、本当にあなたを傷つけてしまった。本当に、本当にごめんなさい。許してくれるかな……本当に酷い人間だよ、私は………でも、それでも―――」
「―――私も、あなたのことが好きです。優人くん」
どれくらいの間、その名を呼ばれなかったのだろうか。俺の心臓が今、動き出した。
「で、でもこの前葉山と一緒に……」
「あれはただ、彼と話をしてただけだよ。断ったんだ。付き合うこと」
あぁ。俺はなんてことをしてしまったのだろう。
こんな幸せを明日には無くしてしまう……。どうして、どうして俺をふってくれなかった!こんな……こんなのない!!!
呆然と見開き、立ち尽くす俺と、涙が止まらない彼女。
「お前は、死なない」
ふと傍を見ると、そこには叢がいた。
今、なんと言った?
「……あなたは………」
な、に……?
目の前の藍子さんが、叢を見ている。ありえない。
「み、見えていたの?」
俺に驚愕が走った。
まさかそんなことが。彼女は、俺と同じく見える人間だったのか。
「ごめん……。隠すつもりはなかったんだけど、どうしても言いづらくて…」
「優人。まず俺の話を聞いてくれ!」
「叢……!お前、俺を騙していたのか!?」
俺は訳が分からなくなった。一体、これはどういうことだ!
「―――優人、すまなかった。今まで俺はお前に二つ嘘をついていた。お前が3ヶ月で死ぬこと。そして彼女が俺を見えていたこと。本当にすまない。悪かった。許してくれとは言わない。だけど訳だけは聞いて欲しい。聞いてくれ!」
激昂していた俺の心が、潤んだ彼女の瞳と、叢の切迫した訴えによって熱を失った。
「俺は、前にも言ったとおり1990年2月14日午後4時頃、ちょうどさっきまでの時間帯に、死んだ。交通事故だった。時速70キロで走ってきた飲酒していた運転手のトラックに撥ねられた。後頭部を石柱にぶつけて即死だった―――」
叢は、いたたまれない顔をしてその過去を語った。
「―――俺にも、好きな人がいた。お前の好きな藍子さんとは違って、大人しくて、あまり人と接するのが苦手な女の子だった。すごく可愛かった。守ってあげたくなるほどに、俺は彼女が好きだった。お前にも分かるだろ?どうしようもなく好きだったんだよ。けど……」
そこで叢は目をぎっと瞑って、激しく歯軋りをした。怒りが、後悔が、顔のすべてを歪ませた。
「……俺は告白もできないまま、片思いのまま今日この日に死んだ。悔しかった。悔しくて悔しくて俺は呪ったさ。この理不尽な世界ってやつを。神という都合のいい存在を。そして俺を轢き殺したあの運転手を!けど……一番悔やんだのが自分の葬式の時だった。友人や先生、そして冷たかったあの家族までもが涙を流してくれた。必死に叫んでも誰も俺を見つけてくれない。そして、その彼女が俺のことが好きだったということを知った。死んでも死にきれないほどの、後悔などという陳腐な言葉では表しきれないほどの感情の塊が、俺を襲ったよ。毎日毎日声が嗄れるほど叫び続け、彼女に必死で訴えた。俺はここにいる、って……」
「叢……」
叢の目から涙が零れ落ちた。熱く、今まで孤独だった叢の想いのすべてを凝縮したような、涙だった。
「……だからな、優人。お前を見つけたときは本当に驚いた。17年もこの世界を彷徨い、絶望の底で漂っていた俺が、自分とそっくりなお前のような存在に出会ったんだから。おそらく、お前は俺と同じ存在であって違う存在なのかもしれない。なぜかわかるか?外見のことだけじゃない。それはな、俺が17年前に死んだとき、お前も同じ年に生まれたからだよ」
「な……」
た、確かにその通りだ。今俺が17歳。つまり、叢が死んだ年に生まれたってことになる。
「魂の半割というものがあるが、それかもしれない。しかし、お前はお前。俺は俺だ。別々の意思を持っている。別々の人生がある。俺が言いたいのはそこじゃない。俺がどうしてお前に嘘を付いてまで幸せになって欲しかったか、それは俺と同じであるお前に、俺自身を重ねていたんだ。告白できずにずるずると幸せを逃すお前を見たくなかった。せめて、お前にだけは幸せになって欲しかった」
するとそこで、叢の体が拡散し始めた。体が眩しく発光し、きらきらと足の部分から光りの粒となって分散していく。
「そ、叢!どうしたんだ!?」
「叢さん……」
藍子さんも、やっとその状況を飲み込めたらしい。その異変に、怯えている。
「ごめんな優人。藍子さんが俺に気づいてたことは知ってたよ。授業中とか目合ったりもしたしな。お前にそれを教えなかったのは、お前の口から、ちゃんと彼女に告白してほしかったからなんだ。わがままでごめんな。でも俺もやっと成仏できるよ。本当の意味での安楽を得たとき、俺たちは生まれ変わるんだ。お前の寿命はまだまだある。幸せにな。彼女を大事にしろよ」
「ま、待てよ叢!俺も、悪かった。自殺なんて図ろうとして本当にごめんな…。でもお前のお陰で俺は幸せだよ。ありがとう叢。お前のこと、絶対忘れないからな!」
「叢さん……。生まれ変わってもまた会えますよね。優人君と、待ってますから!」
「あぁ。また会えるさ」
叢の体はもう光の粒となって消えてしまい、顔だけがかろうじて残っていた。
「優人。最後に言っておくぞ。家族を大事にしてやれ。お前は分からないが、お前の両親はお前のこと、愛してるぞ」
「あぁ……。分かったよ叢。また、いつかな」
「おう。ありがとな、優人――――」
そう言い残して、叢は消えていった。またきっと、会えることを信じて。
「―――行っちゃったね」
「うん……。でも、俺も叢も、幸せになれてよかったよ」
「私も、でしょ?」
「あはは。そうだね」
二人で微笑みあった。生まれてから今まで味わったことのない幸福感が、胸一杯に広がっている。
そこで彼女はごそごそと何かをポケットの中から取り出した。それは、赤い包装紙に包まれた四角の箱だった。ピンクのリボンが小さく、付いている。
「味は多分悪くないと思うけど……おいしくなかったら捨てちゃっていいから」
「あ、ありがとう。全部味わって食べるよ」
生まれて初めてチョコレートをもらった。それがはじめて好きになった人からもらえるなんて。思わず、顔がほころんでしまった。
「――言ってなかったけど、水無瀬くんの笑った顔、ほんっと好きだよ!」
「わわっ」
藍子さんが抱きついてきた。藍子さんのほのかに甘く、柔らかい香りが幸福感をより一層満たしてくれる。
俺も彼女を抱きしめ返した。その体はとても細くて、柔らかい。あぁ。人の体って、こんなにも温かいのか。
涙が、頬をつたった。
「俺も藍子さんの笑顔が好きだよ」
彼女は頷きながら、より俺の体をきつく抱きしめた。
こんなにも温かい温度で、人間は生きているんだ。一人では気づかないその体温は、愛する人の体温と重なることでしか、分からない。
今、藍子さんのそのたった36度の体温が、俺に教えてくれた。
人を好きになることの尊さを。人の温かさを。
潤んだ瞼を閉じ、彼女の熱を感じたとき、俺は誰よりも、何よりもやさしくなれた気がした。
Fin.
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