彼女は、粉雪を払うように振り返り、言った。 「ごめんなさい。―――の――は私、――の―」 聞こえない。 彼女の唇は、言葉を発していない。 時が永久のようだ。彼女の口が動くたびに、なにかを感じる。 「―ぁ――」 この唇の動きは……俺の、名前だ。 かたかたと音がする。 空気に、寒気と暖気が混ざっている。 これは……死の世界? 身体が寝ていることに気づいた。暗闇の瞼を、開いた。 古い、木材の天井だ。側で火が燃えている。これは、ストーブだろうか。 上半身に掛かってある布団をどかし、体を起こした。 手をみてみると、そこにはいつもと変わらない、白い手があった。 右手にある、結露によって曇った窓を拭き、そこにある顔を見た。そこには、やつれきった、死人のような自分の顔があった。 ―――――死ねなかった。 空しい。情けない。なぜだ。なぜまだ生きなければならないのだ。不条理だ。あんまりだ。 まさかこれが死なのだろうか。 そもそもここは一体どこなのか。 思考の低下。そのくせいそいそと鼓動を鳴らし続ける自分の体がおぞましい。 いっそ今度は刃物で一刺しにしてやろうか。 飛び降りが確実なのだろうか。 心は、もう既に死んでいる。 突然、奥の扉が軋んだ音を立てて開いた。 「目が覚めた?」 すらりとした、白い服を着た白い肌の女性が出てきた。髪が漆黒で、目が深い。 静かに俺のいるベッドに座り、俺の額をそっと触った。 「大分体はあったかくなったみたい」 部屋の片隅にある石油ストーブが、かたかたと音を立てている。 「死にたかった?」 その人は窓の外に降っている、静かな雪を見つめてそう言った。窓辺に凍り付いている氷が、室内の温かさによって、水へと変わっている。 俺はずっと一言も話さなかった。 なにも話す気になれなかった。 胸に、推し量ることのできない虚無が、ただ空しく横たわっている。 相変わらず、ストーブの温かい音が、室内に響いている。 そんな沈黙が、長く続いた。 不思議だ。 なんだろうこの懐かしさは。 この人と、まるで毎日同じ家で過ごしているかのような、自分と同じ空気を、感じる。 「私はね、一人でここに住んでいるの」 沈黙を壊さずに、その言葉は零れた。 「もう半年になるかな。ここに来る前は東京で普通のOLやっててさ、それなりに働いてたの。だけどね、私、鬱病っていうか、対人恐怖症にかかっちゃってさ」 その眼を見た。深い漆黒には、俺と同じような光があることに気づいた。 おそらく、この人も、同類。 「人とまともに話すこともできなくなって。会社辞めて、療養と治療を兼ねてここに来た。親戚の斡旋でね。近くにその人も住んでるの」 俯いているその横顔からは、悲しみよりも、寂しさが込み上げている。 「両親はときどき様子見に来てくれる。それもそうよね。まだ若いのにこんなところで躓くんだもの」 今まで無感情だった彼女の言葉が、少しずつ熱を帯び始めた。 「死ぬことだって考えたこともあった。自分が情けなくて、寂しくて。もういっそ死んでしまおうか、そんなことをぼんやり考えてた。比例して、体重も減ったわ」 色素の薄い肌が、首筋から覗く。華奢で、唇のふくらみが小さい。その唇が、少しだけ微笑む曲線を描いた。 「――――そんな生活の矢先だった。いつもどおりに、親戚のおばさんから食料を頂いて家に帰ろうとしたとき、普段は誰の足跡も無いはずの山道に、一人の人の足跡が山奥へと続いているのを見つけたの。なんだか嫌な胸騒ぎがしたよ。だってこんなところですもの、山中で遭難することだって十分にありえるわ」 「足跡を辿っていくと、やっぱりそこには人がいた。雪に倒れたままで、体温がすごく冷たかった。―――私、このときこの土地へ来て初めて、自分の血の流れが激しく息づくのを感じたわ。助けなきゃ。死んでしまう。激しい心の声が、全身に叫んでいた。私は手遅れかもしれないことも構わず、その人を自分の持てる力全てを使ってなんとか家に運んだ。そして、すぐに熱いお湯を沸かして、ストーブで部屋を暖めて、必死で体を温めた」 なんでこうもうまくいかない。 彼女がそういい終えたときに、俺は死ねなかったことに対する後悔が強くなった。 彼女は、俺のほうに向き直り、布団の中から俺の手を探り当て、その両手で包むように握った。人肌に触れるのが、なんだか随分久しぶりに思えた。その手は、想像以上に温かかった。 「手足の感覚ある?長時間氷点下にいると、末端の手足が凍傷にかかりやすいんだけど……だいじょうぶ?」 俺は両手足を動かし、それぞれに感覚があることを確かめた。凍傷ではないものの、どこかチクチクとした痛みが、それぞれにあった。それと、耳や鼻も少し痛かった。 「よかった。私があそこで気づかなかったら、危なかった……」 安堵した溜息が、その美麗な口元から零れた。 「死にたかった」 俺はそう呟いていた。 なんだか全身が抜け殻のようだった。肉体という入れ物に、魂が不本意に入れられている。 「…辛かったね」 俺の手を握ったままの彼女が、いたわるように、優しさが肌で感じれるくらいに、慰める。 「俺は死ななきゃいけなかった。あんたが助けなきゃ、俺は幸せだったんだ」 深層で燻っていた怒りが、露わになる。彼女の温かさに甘えたい自分が、許せない。 彼女は黙っている。 目を伏せて、まるで聞きなれたかのように、ただ黙っていた。 「なんとか言えよ!!!!!」 怒鳴った。柄にもなく、心中が怒り狂っている。同情や慈悲で助けたのなら、なおさら腹が立つ。 命を軽んじていると思われるかもしれない。しかし、全く希望のない未来の前に立たせられた人間ならば、命を軽んじるなどということが、当てはまるわけがない。そう言った台詞は、未来がある人間が吐く言葉だ。 彼女は少したじろいだが、なにか信念をこめた言葉を、静かに語り始めた。 「……君が寝ている間にね、私、ここに来てからのことを考えてた。春には暖かい木洩れ日。夏には激しい猛暑。秋には美しい紅葉。冬には厳しい積雪。―――その中で生きていく動物たち。その中で育まれる新しい命。その中で死んでいく生命。私は突然、ふと感じた。生命というのは、死ぬまで生き続けなければならないのだと。自然界の全生命が、その命を枯らすまで、毎日を、この一瞬を生きるのだと」 死ぬまで生きる。 重い言葉に感じた。それは、自分と似た種類の人間が出した、答えのような気がした。 「…」 「人間も生を全うしなければならない。それが本来の姿だと思った。自らを自らの手で殺すことは、あまりにもおかしい。この体が朽ちるまで、生きてみてもいいんじゃないだろうか。そう、思ったの」 力の篭った言葉は、俺の胸を突いた。高まった怒りが消え去り、忘れていた、自分の心の鼓動が、蘇る。 「意見を押し付ける気はないわ。ただ、私はあなたに生きてほしい。願いなの。もしよかったら、しばらくここに滞在してみない?案外、楽しいよ」 彼女はやさしい目で、俺に微笑んでそう聞いた。怒りは、消滅していた。 実際、ここに滞在してみようかという気になった。腐敗してしまった人間を、ここまで立ち直らせてしまうこの土地と向き合ってみたかった。 同時に、死の淵にいた自分が、皮肉にも強くなったような気がした。 なんて単純なやつだ。本当に嫌気が刺す。 けれども、人間というのは本来シンプルでいいものなのかもしれない。自分に嘘を付かず、やりたいようにやってみてもいいんじゃないか。この人を見ていると、そんなことをぼんやりと思ってしまう。自分の職を捨て、こんなところに来てしまう。別にそれでいいのだ。 凍っていた自分の傷は、次第に溶け出し。 そして温かい血が、流れる。 それは固い瘡蓋となり、時には痛みや苦しみで疼きだすだろう。それをまた剥がして、血も流すかもしれない。 でもそれでもいいと思う。 もう失うものは、何も無いのだから。 たった一つの自分の命を、全うしたいと思う。 答えは決まった。自分でも驚くほどに、心の中に何よりも固い決意ができつつあった。俺は、まるで生まれ変わったかのように、この世界が変化したように見えた。 「……一晩泊めてください。明日、ここを発ちます。もう、俺はだいじょうぶです」 おそらく彼女からは、俺の目の色が変わったように見えただろう。決意が、人を再生させている。 彼女は少しだけ目を見開き、そして微笑んだ。黒い髪が、ストーブの揺らめく光に温かく煌いている。 「うん。もう、だいじょうぶだね」 それ以上はもう詮索してこなかった。 それからは、彼女の作る料理を食べた。土鍋を使った地方ならではのもので、大根などの冬の野菜がふんだんに入れられた郷土料理だった。そこで気づいたのだが、時間が1時をまわっていた。 そして、ひどく疲れていた俺は、食べたあとすぐに眠ってしまった。 翌朝。 彼女の家から駅まで送ってもらい、駅のホームで二人で話していた。これからのこと、自分達の生きる道、自分の弱さ、脆さ。 「あなたは強い人。きっと幸せになれる。ずっと応援してるよ」 「ほんとに、ありがとう。あなたのおかげで、俺はまた生きることができます。ありがとう」 ここで初めてお礼を言うことができた。自分の命を救ってくれたこの人に、今では感謝している。 そこで、彼女は少し恥ずかしそうに、電話番号と携帯のアドレスの書かれた紙を渡した。 「これ……一応私の携帯のやつだから。なにか困ったことがあったら連絡してね。私も、ときどき相談すると、思うから……」 俺は、力強く頷いてそれを受け取った。そのとき、電車が遠くからやってきた。 電車がどんどん近づいてくる。 「私、みゆき。深い雪って書いて深雪っていうの」 そういえば名前言ってなかったな。 「俺は水無瀬って言います。―――それじゃ、行ってきます」 最後に彼女は俺の右手を、小さな白い両手で握った。 目の前で止まった電車のドアが、開いた。 「行ってらっしゃい」 手を離して、振り返る。俺は、この電車から降りたときとは違う新しい一歩を、それに乗せた。 |