雪が窓に付き、恐ろしいほどの速度のせいで、水滴が走る。 新幹線の静かな車内の中、俺は暗闇に満ちた風景を窓からじっと眺めていた。 人はほとんどいなかった。埋まっていない席。がらんとした今の俺の心に、似ている。 この新幹線は山形に向かっていた。 理由は別になかった。ただ、雪の降雪量の多い、日本海側で、雪山などが多いと思ったからだった。 ただ、雪の中で人目につかず死ねればどこでもよかった。 死は、目前に迫っている。だが、俺の心臓はその命の鼓動を休むことなく響かせていた。手を自分の胸に当てれば、その孤独な音が体の髄まで……浸透する。 ただ、悲しかった。 先ほどまでの怒りは消え、胸にぽっかりと空いた穴が、空しさを訴えていた。 俺は一体今までなにをしていたんだろうか……。自分の感情が、まるで乗り移っているかのように、雪はその勢いを増していく。 俺は一体なにがしたかったのだろうか。大切に心の奥底にしまっていた、何よりもかけがいのないものが、音も無く失ったよう。 大事に大事に壊さないように、傷つけないようにといたわってきた、俺の、心。 心というのは、ガラスよりも繊細で、脆く、この暗闇の世界よりも、無限だ。 ―――藍子さん……。 俺はあなたのことがどうしようもなく、自分を捨ててしまうくらいに、好きです。 この思いはどうすればいいんですか。 今まで、耐え抜き、押し殺し、時には血を流した、この、哀れな思いを。 忘れられるなら、忘れたい。 拭えるならば、拭いたい。 新幹線は闇を切り裂くように、雪を吸い込むように、速度を落とさなかった。 車内にきいた暖かい暖房のせいで、俺にまどろみがおとずれた。 自分自身の中の暗闇へ、俺は落ちていく。 気づけばもうそこは山形県内に入っていた。 かれこれ2,3時間はたっただろうか。車内のアナウンスが、山形県内に入ったことを告げる。 外は、闇に染まったディープブルーの雪しか、見えない。 高い山々が幾ほどにも連なり、その木々の上には、凍てつく冬が生み出した、重い雪が覆いかぶさっている。 随分遠いところに来たな……。 新幹線は、山形県の米沢市という場所に停車した。 そこは、予想に反して割とにぎやかな場所で、山々に囲われてはいたものの、駅には人々が行き交い、灯火がいたるところにある町だった。ただし、積雪量がとても多く、街道に雪が積もりに積もっていた。 ―――違う。 俺は、こんな場所で死にたくなかった。だから、さっき新幹線で見えたあの深い深い雪山と雪原に囲まれた土地で死のうと心に決めた。 さっき乗ってきた新幹線の道を、普通列車でもう一度遡っていった。 着いた。 駅名は板屋というところであった。 山という山。そして真っ白に降り積もった雪たちに囲まれた場所だった。 ひどく静かで、ひどく殺風景だった。 家々もほとんどなく、まさに山間地。静寂が、耳の感覚を鋭くする。 どうしてこんなにも静かなのかと思ったら、いつの間にか風と雪が止み、空が晴れていた。空がうそのように綺麗で、雲ひとつ無い。綺麗な満月が、世界を照らした。周囲一帯の雪たちが、僅かに青光りしている。 駅から降りて、ただひたすら死に場所を求めた。そこは、本当に身も心も殺させるような空気が存在した。周りを見渡せば木々、空を仰げば狂ったように月が美しく、狂ったような、月光と闇の絶妙なグラデーションが、そこにはある。 人は誰一人として存在せず、自分の雪を踏む足音だけが、微かに辺りに零れる。 月明かりが、やけに明るい。それだけで、周り一帯が見渡せた。 ただひたすら足を止めることなく、まるで導かれるように、俺は歩き続けた。 どのくらい歩いただろうか。 1時間……いや2時間だろうか。時間の感覚が麻痺している。 携帯を家の机の中に置いてきたので、俺は時間を知る術が無かった。しかしこの際、そんなものどうでもよかった。 足を進めていくと同時に、自分の過去を振り返っていた。 父と母のもとに生まれ、幼稚園に入り、小学校に入り、中学に入る。 小学校では今とは比べ物にならないほど明るい自分がいて。毎日が色彩豊かなものだったという思い出がある。 中学では、少しずつ家に帰ってこなくなった両親がいた。俺はテニス部の練習に打ち込み、勉強に打ち込み、徐々にだが、人と話さなくなった。 口数の問題ではなく、本心での問題。口と口とで話してはいても、心と心で話すことが無くなったのだ。 自分の本心を明かせる親友がおらず、家にはだれもいなかった。 少しずつだが、腐敗していったのだろう。 その結末が、この逃避行なのだ。だがそれも、もうすぐ終わる。 歩き、そして山を登り、道なき道を、足が雪で濡れるのも構わず、ただただ歩き続けた。そして、その場所はあった。 山を登るにつれて、姿を現した小さな雪原。 月光りによって、青みのかかった白い雪が、俺の心に安穏を与える。 まるでその場所があたかも用意されていたかのように、そびえる山々はその雪原を囲み、自分が死んでいく様を見届けようとしているかのようだった。 ためらいはなかった。 俺はその雪原の真ん中に行き、そのまま、倒れた。 雪が辺りに粉のように舞い、肌を刺す冷たい雪が、頬に触れる。 寒い……。 身体がガタガタ震えた。 身震いするほどの寒さの中を何時間も歩き続け、そして雪の中にうずくまっているのだ。身体が悲鳴をあげている。 もう少しだ。もう少しでこの身体の痛みも、心の痛みも忘れられる……。 目を瞑った。 そこは静寂よりも静寂で、冷気が身体を蝕む。 俺はせめて、最後は美しいものを見て死のうと思ったので、仰向けになり、夜空を見上げた。 そこには……想像を絶するような、今までで一番美しい、月と空があった。 今までいた世界から切り離された感覚だった。 見飽きた日常、見続けた世界を、完全に否定した別世界が、俺を迎え入れた。 死は、すべてを許してくれるような気がした。この夜空が、俺を許してくれているように。 身体は冷たさを増し、耳はその機能を停止した。もう、なにも聞こえない。沈黙という沈黙が、俺の耳を殺した。 不意に、涙が出た。 一つ、また一つと。 止まらなかった。 顔がぐちゃぐちゃになり、嗚咽を抑えられなかった。 今まで忘れようとしていた、人間としての、悲愴。 悲しい。 悲しいよ。 誰か助けて。 痛い。 辛い。 死んでしまう。 誰か。 藍子。 あぁ。 僕の好きだった人だ。 好きだった。 僕はあなたが好きだった。 ただ、好きだっただけなのだ。 辛いよ。 好きでどうしてこんな惨めなんだ。 どうしたらいい。 だけどもう遅いのか。 身体が、死ぬ。 心も、死ぬ……。 ねぇ藍子さん。 あなたは。 僕を覚えていてくれますか。 泣いてくれますか。 少しでもいいから、思い出してくれますか。 忘れないで。 どうか、忘れないで。 僕のこの心の痛みを。 あなたを愛したこの心を。 どうか。 どうか気づいてください。 死ぬよ、僕は。 あなたに思いも告げることができないまま。 涙が、とまらない。 頬に温かい雫が、次々と。 雪を溶かし、この星に浸透してゆく。 世界と、私が、一体となってゆく。 涙が。 今まで我慢してきた、大きな大きな涙が。 一粒一粒と。 とめどもなく、溢れる。 指先が麻痺し始めた。 足先も、もう冷たさを通り越している。 だけど、涙だけが温かい。 止まらない。 自分でも止められない。 涙は、俺を死なせようとしないように、必死で、最後の抵抗をしている。 生きろ。 生きるんだ。 俺の身体の最後の残滓が、そう叫んでいる。 だけど、心が拒む。 もう十分だと。 十分生きた。 このまま生きていても、どうせ死ぬ身。 潮時だ。 そうやって、心は目を閉じる。 もういいのだ。 もうこれ以上苦しみたくない。 心は、ぼろぼろなのだ。既に。 疲れきって、もうどこにも、休む場所なんてないのだ。 休める場所といえば、もうこの場所しか。 この雪原が、棺なのだ。 世界が、最後の最後にかけてくれた、情け。 この夜空に出会えたことに、感謝したい。 そして、千也。 お前にも感謝したい。 高校に入って、腐りかけていた俺を、お前は見捨てなかった。 すまない。 藍子さん。 どうか忘れないで。 これからの一生で、俺を忘れないで。 俺は、これからあなたの心の中だけに、生きます。 今までありがとう。 隣りの机になれたこと、うれしかった。 たくさん話せて、うれしかった。 あなたがいることで、俺がどんなに救われたか。 どれほど、その微笑みに、生きる勇気を与えられてきたか。 孤独を抱きながらも、あなたというかけがいのない人が、俺の唯一の、支えだった。 あなたの笑顔が、好きだった。 その指先が、好きだった。 髪も、肩も、首筋も、その温かいやさしさも、すべて、すべて好きだった。 誰よりも、他のどんな人間よりも、俺はあなたを愛していました。 この傷だらけの、もう手遅れな心が、その証です。 潤んだ世界が、広がる。 目を開いた瞬間、飛び込んでくる、深く、凛とした、やさしさに満ちた、夜空。 あぁ。 この空は、藍子さんだったのか。 月の下に広がる、美しい藍の夜空。 そうか。 見てくれていたのか。 ありがとう。 あなたに出逢えて、ほんとによかった。 この孤独な世界で、あなたに逢うために、生まれてきた。 ほんの、短い時間。 あなたを好きになって、よかった。 藍子さん。 俺はあなたとずっと傍にいていいですか。 見守るよ。 この世界に溶けて。 君を、守り抜きたい。 幸せになってください。 あぁ。 もう、消える。 さよなら。 |