世界を一瞬だれかに奪われた。

いや、ヒビが入ったと言ったほうが合っているのか。ドア一枚越しに発せられたその言葉は、俺の心をいとも簡単に打ち砕いた。

彼女は告白されていた。


わかっていたことなのだ。彼女はそのへんにいる女子でも、特別な魅力を持ち合わせていることくらいは。

わかっていたはずなのに……こんなにも苦しい。

「……少し、考えさせて」

そう真剣な声で言う彼女がそこにいた。








翌日。

朝起きてすぐに昨日のことが脳裏によぎり、いやな気分で体を起こした。

カーテンを開けると、雲ひとつない青空が広がっていて、眩しい日光が目をくらませた。

なんて無様だろう。勝手に惚れて、勝手に傷ついて。

惨めだ……。





街道には雪が積もり、人々の無数の足跡をしっかりと刻んでいた。

朝の光と雪が共鳴して、いやでも目に純白が飛び込む。まるで世界は汚れていないかのように。

気分がどうしようもなく重い。昨日までの学校と、今日からの学校。たかが告白された、そんなことだけで、頭を抱えてうずくまってしまう俺はなんなのだろう。

滑稽だ。

しかし何が一体そんなに嫌なのだろうか。

分かっている。

それは、俺の知らない藍子さん。彼女が葉山と仲がよかったということ。知った気になりながら、自分が彼女の何一つも知らない事実。


滑稽だ。












「おはよ〜。メリークリスマス」

「おはよ。メリークリスマス」

今日はクリスマス。彼女に言われるまで俺は忘れていた。

「水無瀬くん英語の予習終わってる?」

「ん、うん。終わってるよ」

「裏の問6の問題の訳、全然分からないの」

「――はい。俺はこう訳したよ」

藍子さんの手に自分のプリントを渡した。彼女の手は白く、細い滑らかな指をしていて綺麗だった。

「へー!こう訳すんだぁ」

「間違ってるかもよ」

心の中は不安なのに、そんなことを微塵も表情に出さずに、俺は普段通りを装った。

藍子さんも普通通りで、これは俺のように動揺を隠している表情なのだろうか。昨日彼女は考えさせてと言った。突然だったのだろう。

隠すのが上手いな。

藍子さんの顔を見ながら、俺はそんな無礼なことを思っていた。





講習は今日で終わる。

もし俺が死ぬことができれば、今日で藍子さんと会えなくなるかもしれない。

決心が鈍る。

しかし、叢のように未練を残したまま死ねば、俺も同じような霊体となって、ずっと彼女のそばにいれるかもしれない。

……だが一体それが何だというのだろう。

話しかけても気づいてくれない。自分の存在を分かってくれない。見てくれない。それは、自分自身の存在が消えたも同然ではないか。

叢を見ていれば分かる。

誰も自分に気づいてくれない。半永久的な孤独。

俺は彼女の幸福を願っているのだろうか。人を好きになるということはそういうことなのではないのだろうか。

―――いや、違うな。俺はその考えが単なるきれいごとでしかないことに気づいていた。

人を好きになるというのは、相手の幸せを願うのと同時に、自分を分かってほしいということなのだろう。

誰も知らない自分自身。それを相手にさらけ出すことで、自分という存在を認めてほしいのだと思う。

ただ単に相手の幸せを願うのであれば、ずっと遠くからその人を見ていればいいだけの話なのだ。相手の幸福を望む。しかし自分自身の幸福も願っている。自分と一緒にいることで、相手に幸せになってほしい。そして、自分が幸せでありたい。

そんな子供でもわかるような事実に、俺はこの年になって気づいたのかもしれない。




昼になっていくにしたがって、雪がちらつき始めた。

今日は弁当がないので、俺は千也と一緒に1階にある購買へと行った。購買は昇降口からすぐ近くの校内にあり、そこには専属の販売員であるおばさんがいる。千也はこの人と仲が良かった。

「俺の焼きそばパンが売り切れぇ!?か、勘弁してくれよ〜」

「ごめんねぇー。残しとこうと思ったんだけど、忙しかったもんだから」

奴の好物。昼はほとんどそれしか口にしない。偏ったやつだ。

「く……しょうがない。焼きそばがなけりゃカレーで応戦するのが俺の流儀だ!」

「俺はこれで」

「毎度」

俺はチーズパンとサンドイッチとミルクティーを買った。

千也と一緒にこの前行った視聴覚室に行って食べることにした。視聴覚室は3階に位置しており、割といい景色がそこからは望める。

雪で覆われた、変わらぬ町並み。これが春になれば、次第に雪が消え、さまざまな色の屋根や店を見ることが出来るだろう。その頃は、おそらく自分はいないが。せめて春の訪れを、もう一度この目で見たかった。

暖房沿いの暖かい机に座りながら、その風景を食事を摂りつつ見ていた。NTTの会社から空に突き出る電波塔が、ひどく冷気を帯びている。

所々にあるビルたちも、曇り空と白い雪によって、世界をより一層中性的にしていた。

「今日は休まなかったんだな。昨日いないからてっきり今日も休むと思った」

「昨日は堪能しましたからな。今日はさすがに行かなきゃいけねぇかなと思ったのさ。あいつも困るだろうからな」

あいつとは千也の彼女を指しているのだろう。

「お前こそ、昨日は藍子ちゃんとはどうだったのよ〜?」

「話して、終わった」

「うげ。もっと放課後とか一緒にいるとかさぁ!どっか飯でも食いに行くとかさぁ!」

「できるかあほ」

そんなことできたらため息つかないっての。全く。でも後半はともかくとして、前半はできそうな気がする……。

「水無瀬もそろそろアクション開始する時じゃねぇのー?ほら、見たまえよ。雪が降っとる。あと3ヶ月もしたらクラス替えなんだぜ?」

「……分かってるさ」

実際はあと2ヶ月しかない。

死んで幽霊になるか。告白して消えるか。

重い選択だ。






放課後になり、さっき千也が提案してくれたことを実行してみようと思った。

さりげなく何か話を持ち込めば、長話ができるかもしれない。

「やっと冬季講習も終わったね。おつかれ」

「いやぁ〜疲れた疲れたぁ。私肩こりやすいんだよねー。おつかれさまでした」

藍子さんは腕を伸ばして背伸びをした。それがなんだか可愛らしかった。

「明日から何しようかなぁ」

「私はとりあえず家でごろごろ生活するかな。あはは。寒くて外出たくないのよね」

「ごろごろって…やっぱ本でも読む感じ?」

「正解!さすがだね!分かっていらっしゃる」

「俺もなにか本でも読もうかなぁ。といってもあまり読みたいものが無いな。なんかおもしろい小説ってある?」

彼女がどんな本を好きなのか気になったので、ちょっとそれを読んでみたくなった。

「あるある!えっとねぇー。夜のピクニックっていうこの前読んだ小説はおもしろかったぁ!!すごいはまっちゃったよ!今度水無瀬くんに貸してあげよっか!?」

「う、うん。そんなにおもしろいなら是非一読させてもらいます」

「ありがとっ!て、なんでお礼言ってんだろ私。あはは」

「ははは」

ほんとこの人といると俺はよく笑うなぁ。不思議だな。

どうしてもでてくる幸福感。そしてどうしようもなく切ないこの心。

彼女を好きになって、本当によかった。この時までは、そう思っていたのだ。そう、この時までは―――。



「ごめんっ。今日はちょっと用事があるから、もう帰るね」

「えっ、あぁ。うん。わかったー。それじゃあいい年末を」

「うん。水無瀬くんもね〜!」

そう言って彼女は手を振って教室から出て行ってしまった。喪失感。空虚感。

しばらく黙って教室のドアを見ていた。だが俺は思考を振り払って、また音楽室へ行った。しばらくピアノに触れないので、1曲弾こうと思ったのだ。






今日は月光を弾き、音楽室を後にした。気づいてみれば、もう空は暗黒の夜空に変わっていた。

千也は彼女と帰ると思われるので、俺は一人で学校の校門をくぐり、自宅への道をただただ歩いた。

雪は大粒で、落ちてくるたびに制服へと染み込んでいった。冷たい空気が、服の隙間から肌を刺す。

学校の道から、次第に街道へと変わる。道の両端にはさまざまな店が並び、色彩豊かな明かりやネオンが、瞳に映る。

ふと、左側の道30mくらい先にあるミスタードーナッツが目に付いた。そこを歩いている2人は、俺と同じ制服。








心臓にまるで釘を打たれたような感じだった。







その2人は、藍子さんと葉山だった。

見間違えるはずもない。

2人は、手はつないでいないものの、並びながらゆっくりと雪に足跡をつけていた。


この裏切られるような衝動。痛み。

激しい心の痛みが、俺という人間をバラバラにしていく。






俺は無意識にその二人に見えないようにして別の道へと入った。そして、遠回りの道をひたすらに歩き、自宅に着いた。



そして何を思ったのか、すぐに私服に着替え、厚手のジャケットを羽織り、クローゼットの奥にしまってあった10万円を財布に入れた。

ショルダーバッグに服やらなにやらを詰め込み、机の上にあった適当な紙の裏に、マジックで書いた。

「友達の家に2,3日泊まってくる」と。




玄関の扉を勢いよく閉め、周りに叢がいないかどうかをくまなく探す。

いないことを確かめると、俺は全速力で2キロ北にある駅へと走った。


自分のしていることがよく分からなかった。

ただ、考えていたことは、この世の中に対する悲痛な叫びと、自分自身の驕りに対する殺したいまでもの怒りだった。


くだらないくだらないくだらない!!!!!!

自分自身を憎んだ。この世界を呪った。神がいるならば、今ならありとあらゆる手段で殺すだろう。

全力で駆けながら、俺は、熱い涙が、視界を歪ませていることに気づかないふりをしていた。