椅子に座り、ピアノの扉を開ける。

滑らかな漆黒のグランドピアノ。内部には無数のピアノ線が通っている。

マゼンタのカバーをとると白と黒の鍵盤が、完全な秩序を持って現れる。冷たい鍵盤に指を触れると、鼓動に安らぎを覚えた。

シンと静まり返った音楽室。

目を瞑って耳を澄ます。聞こえてくるのは暖房の機械音。かすかだけれど雪の降り積もる音が聞こえる気がする。

ゆっくりと目を開け、指で鍵盤を一つだけ押した。

まるで、自分の中に広がる心の水に小さななにかを落とされたようだ。小さいが、しかし確かな音。それは、澄んだ音。

気づいたら俺は座ってその両手をそっとピアノに置いていた。

指は、音を欲している。だから、俺は思うがままに弾いた―――。



放課後に響き渡る曲はベートーヴェン、“月光”の第一楽章。俺はその部分しか知らない。

昔俺はこの曲をひたすら練習した。おそらく毎日やった。昔、いまはもう引っ越してしまったが隣りの家におおきなグランドピアノがあって、俺はそれで毎日練習していた。

繰り返される音程。流れる指。この空間だけがまるで現実から切り離された別の空気が漂っているようだと感じる。

窓に飛び交う白い粉雪が、なぜかこの曲に合っている。月光の白さと雪の白さが似ているからだろうか。

音楽室はもはや自分の音で満たされ、俺はその世界に浸った。その世界で、俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。

今まで堪えてきた、死への恐怖。自分の心の奥底に無理やりに押し込んだ、純粋な恐れ。それは俺の中で激しく暴れ、心を乱した。

自分の心情とは裏腹に、指は随分と久しぶりのはずの曲を間違えずに見事に弾いている。

俺は、ただひたすらに、そうやって弾いていた……。


気づけば自分の目は涙ぐんでおり、指はいつしか止まっていた。

息を荒げ、視界が乱れている。自らが、こんなにも弱い存在だとは、知らなかった。

誰も支えになる人などおらず、生まれて初めて気づく、“孤独”。家族も、友達も、恋人も、いない。俺は、一人、だ。

取り乱した俺は、手を思い切りピアノの鍵盤に叩きつけた。

ピアノの無秩序な音は、その空間にあてもなく零れ、自分自身の心を映し出した。

俺は、震えていた。



音楽室を出て、白一色に染まった外にでると、複数の男子が話していたり、彼氏待ちの女子がいたりしている。

いつも以上にその光景に胸を苦しめられ、あらためて自分の境遇を知る。

俺はその集団の中を一筋に歩き、新雪を踏みしめながら校門をくぐった。

雪は、さっきまでの激しさはないものの、未だに降り続けている。空を見上げれば、冷淡とした暗青色の雲が腰を据えている。

薄暗くなった夜でも、降ってくる雪の白さは美しかった。顔に落ちてくるのも構わず、俺は空を仰いだ。上空は、無数の白が舞い踊り、体が吸い込まれそうだった。

一つの雪が頬に付き、水になった。

俺は泣いてるように見えると思ったから、それを右手でそっと拭った。








12月11日。

今日はこの間、千也と約束していた駅前の店に来ていた。

「うお、俺そういや水無瀬の私服初めて見るわ。かっこいいじゃん〜」

「……どうも」

まず初めに、二人でビリヤードをしているとき、千也はそう言った。俺はごく普通であるファー付きの黒いジャケットに、デニムを着ていた。

「そういや俺ら学校以外で遊ぶことなかったな」

「淡白な関係だな」

俺は手玉を弾き、3番の玉をキレイにポケットに入れた。初めてやったのだが、物覚えがいいのかすぐにできるようになった。

「うまいねぇ」

「これ結構おもしろいな」

「お前初めてじゃなかったっけ?」

「才能」

「こんにゃろうー」

ビリヤートの台を挟んで、俺らは自分たちの休日を満喫していた。店の内装はとても新しく、洒落た店だった。壁は赤いレンガ造りで、室内の隅には大きな名も知らない植物が置かれている。きっと何も知らないでここに来たらどこかのバーと疑わないだろう。

店内のほんのりと赤い照明は俺らを照らし、天井のファンはゆっくりと回転していた。

「うお」

俺は集中を乱したのか、狙っていた球には当たらず手玉だけがどこかへ行ってしまった。

「はっはっは。調子に乗りすぎたな水無瀬君」

「ち」

千也は待っていましたとばかりに手玉を好きな場所に置き、キューを持ち、構えて打った。4番の球に綺麗に当たり、ゴトンと音を立ててポケットに吸い込まれていった。

「そういえばさぁ」

千也は喜ぶ代わりに、俺に話しかけてきた。

「さっきここに来る前に藍子ちゃんに会ったぜー。星野と二人でどっか行くらしい」

「へぇ」

俺は少しムッと来たが表情は変えずに髪を撫でた。

「一緒に遊ぼうって誘えばよかったな」

「……いいよ別に」

元々悲観的だった性格がさらに進行しているらしく、俺は自分が弱気になっていることに気づいた。だってそれもそのはず。死のときを知っていて弱気にならない奴がどこにいる。

「なんだ水無瀬、もっと積極的に行かなきゃ女の子は振り向いてくれん、ぞ!」

次は5番の球が一度壁に当たった手玉によって弾かれた。カン、カンと音を鳴らして穴に入ろうとする。しかしその勢いが弱かったのか、5番の球はポケットのわずかに手前で止まった。

「ちっきしょー!弱かったかぁ!!」

千也は悔しそうにキューを両肩にかけ、しゃがみながら唸った。人がしんみりしているというのにこの男は。実に人間っぽいではないか。

俺はキューを握り、構えた。手玉を打ち、5番の球が落とされる。

「お。ビリヤードなんてやってるよ」

突然横の方から声をかけられた。この声は確か……。

「お!星野ぉ!それに藍子ちゃん!来てくれたのか!」

「やほー」

いきなりの来訪に心臓が跳ね上がった。俺は振り向いて二人の姿を見た。俺は、普段見られない藍子さんの私服姿に緊張を隠せなかった。

藍子さんはベージュのマフラーに白いダウンジャケットとブーツカットのデニムを着ている。可愛いとしか言いようがないのだが。

「な、なんでこんなところに?」

「さっき千君がここで水無瀬君と遊ぶって聞いたからね。近くまで来たから寄ってみたんだよ〜。なんか私服の二人も随分新鮮に見えるね」

「なるほど……」

「おーし。んじゃ4人でボウリングでもしようぜ〜」




中学以来ボーリングは一回もやってなかった。暇はいくらでもあったのに、俺は全然興味を示さなかったらしい。いや、ただ単に面倒くさいだけだったのだろうが。

まず一番手だった俺は、背後の視線に気を取られつつ、構えて球を投げた。

球は右よりに行ったが、うまく左にカーブし、ちょうど真ん中をえぐるようにしてピンをすべて倒していった。威勢のいい音を響かせながら、上のスクリーンにストライクの文字が出てくる。

ていうかまさか最初からストライクいけるとは思わなかったのだが。

「おいおいおい!初っ端からストライクだと俺が投げづらいじゃねぇか!」

「水無瀬くんすごいー!」

「ひえー」

3人とも驚きの反応。たしかにこんなひょろっとした暗い人間がいきなりこんなだと驚くだろうな。無意識に藍子さんのほめ言葉に照れる俺は単純だなぁと心底思う。

「みたか俺の実力」

「こいつめが……。くらえ!千也の右手ストライク殺法!」

ガゴーン。

千也の球は力みすぎてガーターに直行コースになってしまった。全員が笑いをこらえている。

続く2回目も明らかに張り切りすぎてまたガーターに行ってしまった。

「あ、あぼーん」

訳のわからないことを口走りながら、千也はがっくりうなだれてしまった。

「よーし。じゃあ今度は私だね!見てろぉー」

星野は着ていたコートを脱ぎ、その右手を握った。中は白いパーカー姿だった。投げた球は真ん中よりもやや左側にコースをとり、7ピンを落としていた。

「お、やるじゃん」

「ナイスめぐみっ!」

その後星野は2ピンだけ倒し、計9となった。

藍子さんの順番が回って、彼女は重いボーリングの球をおもむろに持った。姿勢を整えたときの横顔は凛としていて、どこか品があった。

指先から球が離れる。その指先でさえも、自分は目が離せない。俺は、相当な末期だと自分自身を呪った。

球はすべての球を落とし、全員が呆気にとられた。

「な……」

「す、すごい!さっすが藍子!!」

「あぼーん」

ストライクの文字を背景に、左腕を上げる様に、好感を持つ。

千也はまだ立ち直れていないところに止めの一撃を食らったのか、またしても同じ言葉を呟いていた。

「ボーリング得意なの?」

「この前友達と熱中してたからね。なんだか体が覚えちゃって」

恥ずかしいのか、照れて頭に手を置いた。可愛らしかった。

そのまま1ゲームやって、一位が藍子さん、二位が俺、三位が千也、四位が星野という結果に終わった。千也は後半に結構盛り返してきたが、あと少しだけ俺に足りなかった。



終わった後に時間は5時を指していた。外には雪がちらつき始め、薄暗くなっていた。

今度は各自ゲーセンで色々遊び始めたので、俺は飲み物を買いに違う方向に向かった。自販機で買った缶ジュースを持って、丁度よく側にあった白いテーブルと椅子に座った。

窓際のその席からは、雪の降る自分の街が見えた。ネオンに照らされ、白で彩られる、街。

ふとそんな感慨に耽っていると、向かいの席に藍子さんが座った。

「なに暗い顔してるのっ?」

「いや別に暗くは……」

笑顔で俺を見るその目には、なんの屈託もなくて。

「今日は買い物に行こうとしてたんだっけ?何買うの?」

「んー、そうだなぁ。一応服とかがめあてで木葉通りに行くつもりだったんだけどね。私とめぐみって買い物いくと止まんなくってさぁー。ついつい色んなとこ行っちゃうんだー」

「へぇー。俺はロクに買い物行かないからなぁ。外は寒くて」

「あはは。水無瀬くんは家でコタツにでも入ってるのかな?」

両腕をテーブルの上に乗せ、微笑む。俺は、今自分が幸せだということに気づいた。

「映画とか見てること多いかなー。コタツじゃなく暖房のきいた部屋でソファーに座ってるね」

「なんかお金持ちーって感じ!」

「そんなそんな……」

ふとガラス窓に映る自分の顔を見ると、普段全く見せないような明るい自分が、そこにいた。